賀茂真淵(かものまぶち)は、元禄10年(1697)3月4日遠江国(とおとうみ)敷智(ふち)郡浜松庄伊場村(今の浜松市中央区東伊場)に賀茂神社の神官岡部政信の三男として生まれました。
11歳の時から荷田春満(かだのあずままろ)の姪で、浜松諏訪神社の大祝(おおはふり)杉浦国頭(くにあきら)の妻真崎(まさき)に手習いを学びました。26歳の時、浜松の杉浦国頭家歌会で春満に会い、国学への目を開きました。31歳のころ上京し春満に入門、詠歌・学問に励みました。
春満没後は江戸に住んで、50歳の時、八代将軍徳川吉宗の次男田安宗武(たやすむねたけ)の和学御用となりました。64歳で隠居し、著述と門弟の養成に努めました。
明和6年(1769)10月30日江戸で亡くなり、品川の東海寺に葬られました(73歳)。
賀茂真淵翁顕彰碑(誕生の地)
真淵は『万葉集』を研究し、"国学"を樹立しました。
"国学"は、江戸時代"漢学"に対して起こった新しい学問で、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などわが国の古典を研究して、古代の思想・文化を明らかにし、そこに生き方のより所を求めようとした学問です。
契沖(けいちゅう)・春満が創始し、真淵が樹立し、本居宣長(もとおりのりなが)が大成し、平田篤胤(あつたね)が発展させました。
[契沖・真淵・宣長を三哲(さんてつ)、春満・真淵・宣長・篤胤を四大人(しうし)と言う。]
真淵は、特に『万葉集』の研究に心をくだき、その研究は、『万葉集遠江歌考』『万葉解』『万葉考』にまとめられています。
他に真淵の著述として、『冠辞考(かんじこう)』『語意考』『歌意考』『にひまなび』『国意考』『祝詞考(のりとこう)』などがあります。
真淵は、歌人としても優れ、万葉調を復興しました。真淵の和歌は、1000首ほどあり、それらは、『賀茂翁家集』[村田春海(むらたはるみ)撰]などで読むことができます。
『万葉考』版本
賀茂真淵和歌
県門(けんもん)【真淵の門人】は、340名もおりました。
『うけらが花』の橘千蔭(たちばなのちかげ)・『琴後集(ことじりしゅう)』の村田春海は、幼時からの門人で、『古言梯(こげんてい)』の楫取魚彦(かとりなひこ)・『志都乃屋歌集(しずのやうたしゅう)』の加藤宇万伎(かとううまき)と共に“県門の四天王”と呼ばれました。
エレキテルの平賀源内(ひらがげんない)、盲目の大学者塙保己一(はなわほきいち)も県門で異彩を放っています。
県門には、大名の後室(こうしつ)や侍女(じじょ)など女性の門人が多く、その数、100名を越えたと言われています。
最も優れた門人は本居宣長で、宝暦13年(1763)の真淵との対面“松阪の一夜”をきっかけに、真淵の学問を継承・完成させました。
遠江の県門では、内山真龍(うちやままたつ)・栗田土満(くりたひじまろ)らがおり、真龍の門人石塚龍麿(いしづかたつまろ)・高林方朗(たかばやしみちあきら)・夏目甕麿(なつめみかまろ)らや土満の門人石川依平(よりひら)は遠く伊勢の本居宣長・春庭(はるにわ)のもとに遊学しました。
「松阪の一夜」の図(本居宣長の宮 蔵)
賀茂真淵翁顕彰碑
昭和56年(1981)浜松市制施行70周年記念として、
真淵誕生の地に建てられました。
"賀茂真淵誕生の地"・"主著"(真淵の主な著書)・
"九月十三夜県居(ながつきじゅうさんやあがたい)にて"
の碑などがあります。
縣居(あがたい)神社
【賀茂真淵が祭られている神社】
境内には、真淵の歌碑や浜松城主水野忠邦(みずのただくに)
の"縣居翁霊社(おうれいしゃ)"の碑などがあります。
賀茂神社
【賀茂真淵の先祖が祭られている神社】
境内には、"賀茂神社献詠歌"(荷田春満の和歌と真淵の
長歌)・"縣居神社遺址(いし)"の碑があります。
万葉歌碑 "引馬野に(ひくまのに)"
浜松市中央区利町(とぎまち)の五社公園の中にあります。
浜松市制施行85周年と賀茂真淵生誕300年を記念して、
平成8年(1996)に建てられたものです。
歌碑の文字は真淵翁直筆の『万葉集遠江歌考』から拡大
転写したものです。